ジャニオタが勉強してみた

生粋のジャニヲタが、人生のお勉強をするブログ

舞台「文豪とアルケミスト 綴リ人ノ輪唱(カノン)」の感想(R3.2.24追記修正)

 

【コロナで心が死んだオタクが、文劇に救われた話】
(※ちなみに第2弾の感想はこちら

 この作品は「文化芸術が無くなったときに、人の心はどうなるのか」
 「今、私たちは、どのように抗い立ち向かい、コロナと共存していくのか」が描かれた社会派の作品です。

 そう思った印象的な2つのシーン。
北原白秋太宰治のやり取り。
白秋「戦争が起きて、文学が必要とされなくなっても文学を作るか?」
太宰「俺は作り続ける。パンで空腹は満たせても俺の心までは満たせない。本当の貧しさは書くことを失い、心が貧しくなってしまうこと。俺にとって、文学は生きる事そのもの」

②普段は穏やかで優しい北原白秋が、初めて怒りをあらわにして国家に対し叫ぶシーン。
「もし望むなら、この世から全ての文化芸術を消し去ったらいい。小説も絵画も音楽も詩集も短歌も!全部消し去ってみたまえ!!その後この世界に何が残るのか。人の心に何が残るのか!その本質がわかるのか!!」

 このシーンを見た時、腹の奥底から突き上げるような衝動が湧き上がり、胸が締め付けられ苦しくなって、息ができなくなった。

 皆、多かれ少なかれコロナが原因で、今まで当たり前だった日常が奪われている。けれど、毎日起きて、会社に行き、真っ直ぐ家に帰って、独り静かに過ごす。私はそんな生活を続けているうちに、『何のために生きているのか』生きる意味がわからなくなった。
 そして…心が死んだ。
(※食べることが出来なくなり体重も10キロ弱落ちた)

 だから太宰の『パンで心は満たせない』って言葉がめちゃくちゃ心に突き刺さった。感情がぐちゃぐちゃになり、初日公演の配信を見てパソコンの前で声を上げて泣いた。

 そして役者さん含めた作り手側が、白秋の言葉を通して《文化芸術は絶対に消させない》と抗い、必死に戦っている姿が伝わって来た。

 脚本家のなるせさんが、戯曲ノ書で「文学とか演劇とか文化的なものは、食べ物のように必要不可欠ではないので、時代の流れによって消されてしまうかもしれないもの。でも無かったら味気ない人生になる」っておっしゃってました。まさしくこの言葉がこの作品を今やる意味、そして存在する意義だと思う。

 いつもの舞台感想文より重い入り方ですみません。
 というわけで、まずは

 

【タイトルと主題歌から読み解く3部作の流れ】
第1弾から第3弾のタイトルと主題歌を並べてみると
1.≪挽歌(エレジー)≫ 「光ノ先へ」
2.≪円舞(ワルツ)≫  「白き美しき世界へ」
3.≪輪唱(カノン)≫  「魂となりて」

 1人でも歌える≪挽歌≫から、2人で踊り3拍子の≪円舞≫になり、複数で歌って追いかける≪輪唱≫になる。しかも「輪廻転生」を略したら「りんしょう(輪唱)」になるんだよ!

 文豪達が転生して「光ノ先へ(1)」進み、「白き美しき世界へ(2)」へと羽ばたき、「魂となりて(3)」も、なお再び「光ノ先へ(1)」輪廻転生する姿が描かれてた。

 毎回、作品を見終わった後に『そういう意味かぁ』って気づく、このタイトルと主題歌のネーミングセンス。秀逸すぎるよ!演出家の吉谷さんが「この第3弾で文劇シリーズに一つの区切りを作る。一度”点”を置いてみる」とインタビューで話していた意味がわかる3部作でした。
 その理由は以下に。

 

【舞台「文豪とアルケミスト」シリーズとは】
≪人の言葉(=想い)が人を生かす≫
 これが主軸なのかなと私は受け取った。

 史実では自殺した文豪達が、このシリーズでも死を選ぼうとするシーンが出てくる。でも、その選択時には、必ず誰か仲間が隣に居て、最終的には生きることを選ぶの。

 例えば第1弾では無頼派の2人が太宰に寄り添い、太宰の想いが芥川を助け、仲間達が太宰と芥川を救い出すエンディング。
 第2弾では、「友情」で繋がっていた志賀と武者が、時にお互いを信じられなくなりながらも、絶対的な絆で再び繋がる。その姿を見た有島(史実では自殺)が、二人と一緒に白樺派として共に生きていくエンディング。

 人が生きていくって、一人じゃ絶対に無理で、誰かが側に居てくれて自分のことを想ってくれるから生きていける。今作でもそれが描かれていました。
 太宰が仲間から「生きろ」ってメッセージを送られるんだけど、これは仲間から太宰に向けた言葉だけでなく、演劇、エンターテイメントの灯火を消さないという意味の「生きろ」そして私のように心が死んだ人間へ対しての「生きろ」って言葉だと思った。

 時系列的には第3弾→第1弾→第2弾の順で、今回の第3弾では全員殺されます。(めっちゃネタバレ)でもこの世界で肉体が滅んでも、次の世界に目を向け、輪廻転生を信じ前へ進む選択をする。そうすることで第1弾に続き、再び仲間に出会うことができて、仲間に救われる話へと繋がる。

 個人的に第2弾の話が一番好きなのは、シリーズとして2が最終話だったからだ、と納得した。
 こんだけネタバレしといてなんですが、まだ見たことない人はちゃんと第1弾→第2弾→第3弾の順で見てください(笑)時系列順にと思って3から見ちゃうと、シリーズに対する重みが全然違ってくるから!

 

【まとめ】
 芥川が太宰に向けた言葉がこの作品、ひいてはシリーズ全体を物語ってたと感じたので引用します。
(※法的に引っかかるかもしれないので要旨のみ)
「例え僕が滅びても、君の中で僕は生きてる。君が僕のことを気に入ってくれているなら、君の中には僕の作品が流れて、繋がっているんだよ。君が僕を想ってくれている限り、僕は君の中で作品と共に生きている」

 

【最後に】
 太宰が芥川の本に出会えたことで光を見出したように、私は文劇という作品に光を見出すことが出来ました。
 まだまだ微かな光で、灯火のように消えてしまうかもしれない。
 それは蜘蛛の糸のように、細くてすぐに切れてしまうかもしれない。
 ときには、その光を信じられなくなることもあるかもしれない。
 でも、自分の中にあるこの光を消さないよう、演劇という光を絶やさないよう、これからも前を向いて応援していきます。

「苦しい時こそもう一歩」前へ進み続けなきゃね。

 


↓ ここからは見た人向け第3弾の細かい点 ↓


【様々な伏線や気づき】
・第2弾から第3弾への違和感
まずセットについて。
 1と2はセットが可動式の仕組みで綺麗な作りなのに、3はところどころ壊れていて一切動かない。そこから3の時代背景は『1と2の前?』と読み取れた。
次に萩原朔太郎の性格について。
 2でおどおどしていた性格が3では全然違って、観てる側は最初すごく混乱した。違う理由はおそらく、3では隣に親友の室生犀星がいて、導いてくれる北原白秋先生が居てくれるから。そんな朔太郎がひとりぼっちで2の世界に転生したら、そりゃ不安になるよね。2は白秋一門から萩原朔太郎のみ。無頼派から坂口安吾のみを転生させることで、白樺派の友情や繋がりが強調されてたんだな、と思った。

 

・第3弾のキャストと時系列について(R3.2.24追記)
第1弾は無頼派が3人
第2弾は白樺派が3人
第3弾は白秋”一門”が3人
この3人はあくまで一門であり”派”ではない。
 第3弾では『個人主義』を描くために、敢えてどの派の括りも登場していないのかもしれない。第2弾で武者小路実篤有島武郎に「人には個性があるから、それを尊重しながら作品を作った方が良いものが出来る」と言うし、有島も武者に「誰もが平等で誰もが個性を活かせる社会」と、白樺派の理想郷について語る。
 時系列では3→1→2だけど、第3弾のテーマはちゃんと第2弾で白樺派の会話で描かれていて、それを2も3も両方に登場する萩原朔太郎が聞き、メッセージとして伝えられていた。
 ※もちろん1→2も細かい点で多々繋がっているけど、既に書いてたり皆知ってたりするので割愛

 時系列についても3→1→2の時系列だと思っていたけど、果たしてそうなのか?円盤を観て疑問に思った。第3弾の最後で太宰と芥川が出会うシーンがあるけど、第1弾では全く同じじゃない。と言うことは、別次元の話なのかもしれない。芥川の言葉の端々から何度も輪廻転生していることが伺えるので、純粋に3と1は続き物ではなく、別次元で繋がっているだけなのかな、と思った。


・芥川と太宰からみる輪廻転生
 史実では、芥川が自殺したとき、太宰はまだ学生で二人は出会っていない。にもかかわらず、芥川は太宰に会った時「太宰君のことは知ってるよ。今度出会うことがあったら君と話をしてみたいと思ってたんだ」と言う。そして3の最後に「また…出会えたね」って芥川が太宰に語りかけるあのシーン。芥川のこの言葉を聞いた瞬間、大号泣でした。
 芥川も太宰も3の時点で既に輪廻転生を繰り返している気がするんだけど、どうなんだろ。太宰はオープニングで「転生?以前にも同じような出来事があったような気もするし、初めてな気もする」と言ってて、芥川も「失望はないよ。もう何十回何百回と地獄は見てきたのだから」と言ってたので。


・「光」の表現方法としての灯火と電球
 白秋、朔太郎と犀星は「灯火」って単語を使うのに対し、太宰は「電球」という単語を使ってた。

 単純に生きてた時代の違いだけでなく、もっと深い意味があると思う。
 まずは「灯火(=火)」について。
 「火」は人類が初めて生み出したもの(=白秋が詩に歌をつけて童謡というジャンルを生み出した)
 火を起こすのが難しかったので集団生活の基盤となった(=白秋に導かれて朔太郎と犀星が北原一門になった)
 火に近づくと暖かさや温もりを感じる(=白秋が書く詩の雰囲気に近い)
 暗闇の中だから灯火は役に立つ(=白秋の詩は関東大震災で心の拠り所を無くした人の救いになった/この辛い状況だから演劇は人の救いになる)
 しかし灯火は吹けば消えるようなもろい存在(=白秋の詩は国家にプロパガンダとして利用される/国によって演劇が消える)

 次に「電球」について。
 「電球」は文明の利器でいつでも明るさを供給できる(=豊かな国の象徴)
 強い光を放つ(=芥川に対する太宰の強い憧れ)
 光が強い分、影も濃くなる(=太宰の闇)
 停電が起きれば一帯が全て真っ暗になる(=芥川の自殺で太宰は絶望する)

 このように意味合いは違うけど「灯火」も「電球」も両方とも「光」であることは確かで、朔太郎と犀星は白秋という光に導かれ、太宰は芥川という光に憧れた。3のエンディングで光の中へ入っていき、1の最初のシーンに繋がるの、素晴らしすぎて感動した。第1弾の主題歌のタイトルが「光ノ先へ」なのが、第3弾のこのエンディングを見越したうえでだったら、計算され尽くされてる!ここの平野さんの演技が、東京公演から京都公演にかけて変わった気がしたんですけど、配信期間終わっちゃったから比べられないよぉ。京都公演の方が『前向きに進む覚悟』を感じられた気がした。


・国の豊かさと心の貧しさ
 劇中で「国の豊かさと人の心の豊かさは必ずしも比例しない」って言葉が出てくる。
 国の豊かさ(=GDP)は日本3位なのに対して、自殺率は先進国G7で日本がトップ。今の日本は食べる物には困らないけれど、誰もが寂しさを抱えていて、自ら死を選ぶ人が多い世の中になってる。

 少し話は逸れますが、2022年に高校の国語の授業が大きく変わります。簡単に言うと、小説に触れる機会が大幅に減る可能性がある。
 背景には読解力の国際順位が8位から15位に下がったことが理由で、読解力とは、小説に出てくる主人公の心情を読み取るだけでなく、テキストに書かれている内容を読み取り、意味を理解する能力を求められている。
 つまり、人の気持ちを読み取るより、論理的思考が重要視されているということ。文学作品が、契約書やグラフに変わってしまうんだよ。

 北原白秋が生前に力を注いでいた、詩と歌を使って子供たちへ情操教育を行うことが、国に否定されている現状なんです。だから今回、北原白秋をキーパーソンに据えたのかな、とも思った。


北原白秋(と小道具の使い方)がすごい!
 関東大震災で人々が死んでいく地獄を見たのに、全てを包み込むような世界観の詩を書き、多くの心を救った人。白秋は太宰に「醜いものを見て『醜い』と言うのはたやすい。醜い世界を見ていたとしても、優しい世界へ人々を導く。そういうことを僕はしたい」と言っていた。そんな人物だから芥川は白秋に惹かれたし、中原中也も白秋の「からたちの花」に潜書したときに、子供時代を思い出して、太宰も懐かしい気持ちになった。

 あと、細かな点だけど、冒頭のあたりで、白秋が侵蝕者に憑りつかれた際、皆が「見た目が白秋さんだから戦うのに抵抗がある」って戸惑うのね。そして最後のあたりで、侵蝕者が殺された萩原朔太郎に成り済ますの。普段の白秋なら、絶対『あれは朔太郎じゃない、侵蝕者だ』って気づけるはずなのに気づけないのは、それだけ朔太郎の死はショックで大切に想ってたからだと思う。そして、朔太郎の姿をした侵蝕者に白秋は殺される、っていう最期がめちゃくちゃ切ないし苦しい。
(「侵蝕者は学習する」ってのもここで表現されてるのかな?)

 北原白秋といえば「この道」という童謡。劇中に2回出てきます。
 特に1回目の演出が細かいの。
 教室の情景(=白秋が子供たちに行った情操教育)
 小学校の椅子(=懐かしさ)
 椅子で道を作る(=幼少期から進んでいく過程)
 それだけでなく、史実にある「犀星が朔太郎を助けるために椅子を振り回した」ってエピソードと上手く絡めて椅子を使ってるあたりも、ほんとうに小道具の使い方が上手い!
 2回目は、輪廻転生する先の未来を指し示していた。この最後のシーンでこの曲をBGMにするの、ほんとうに泣けるから助けて欲しい。


・文学に対する太宰と白秋の対比
 白秋は「文学は個人的なもので文学が無くても生きていける。書きたいものだけを書いていたわけじゃない(=プロパガンダに利用された)」と言う。
 それに対して太宰は「文学は空気。無かったら死ぬ!書きたいものを書かないなら、それは文学と呼べない!!」と真っ向から反論する。
 真逆の考え方だけど、そんな太宰の考え方に白秋は「書きたいものを書けばいい。それが個性なのだよ」と認め、受け入れてくれるのは新ロマン主義の人だからなのかな。新ロマン主義個人主義に近い傾向があるし。

 ここで主義について簡単にまとめてみました。
 全体主義:個人の権利や利益を認めず、全てのものを国家の統制下に置こうとする主義
 国家主義:国家が最高価値とし、個人よりも国家に絶対の優位を認める考え方
 個人主義:個人の意義と価値を重視し、権利と自由を尊重する立場や理論

 白秋がプロパガンダに加担した経緯の中で「国の力は強大なのだよ。文学者である前にこの国家の中で生きている。だから右を向けと国家が言うなら、右を向かねばならない。その力に抗えばその代償は高くつく」って言葉は、戦時中の全体主義国家主義を指すだけでなく、演劇に携わる作り手側の国への怒りを白秋のセリフにのせ、今の政府と演劇界との関係を伝えてるんだと感じた。国家の中で生きている以上、国が「生きるために文化芸術は不要だ」と言えばそれらは無くなってしまう。さっき書いた、国語の授業だってそう。
 そんな状況下で、敢えてこのようなテーマを含んだ舞台を作った制作陣の強い意志に私は惹かれるし、救われた。


・OPの演出
 吉谷さん演出のOPって、OPを見るだけで作品の全容がわかるように作られてるのね。今回も本編を最後まで見終わってもう一度OPを見たら『うわぁ、最初から最後までのストーリーが表現されてる!』ってなった。

・アンサンブル=ブルズさんの動き(9/30修正)
 ブルズさんの存在ありきで成り立ってる舞台だと思った。時には侵蝕者に、時には文豪の心の表現に、時には関東大震災で亡くなった人たちに、無機物の本棚にまでなる。その時々で姿を変え、舞台を支えてくれるブルズさんの存在に感謝です。ブルズの町田さんがTwitterで、各キャラクターと対峙する時、ちゃんと各キャラが引き立つように演じてたのを解説してくれてるの。これは一読の価値あるから見てほしい。アカウントは町田尚規さん@11mati10です。


・糸の演出意味
 3では侵蝕者の親玉とその手先が糸で繋がっていて、糸が負のエネルギーを与えるツールになっていた。それが最後のシーンでは、殺された文豪達が太宰へ想いを伝えるためのツールに変化してました。
 だから1ではあの糸は蜘蛛の糸となり、芥川と太宰が生きるためのツールに繋がっているっていう、ね。
 糸に意味を持たせるシリーズ一連の流れが凄い。個人的に自転車が出てこなかったのが心残りです(笑)

・北原一門と中也の武器が銃の理由(9/30修正)
 詩人達の武器が銃なのは『短い言葉で強い思想を伝える』という表現なのではないか。白秋の武器で銃口が二つなのは、詩と童謡のWの意味?それか北原白秋山田耕筰の2人を指してるのかも。両手で撃つ二丁拳銃なのは、おそらく弟子である犀星と朔太郎の表現だと思う。


・望んでいないのは誰か?
 館長が「有碍書は望まれていない存在。望んでいないのは誰なのか、主体を考える必要がある」と言ってた。作家が望んでいなくても、大衆が望んでいるものを書いたのが芥川龍之介(アニメより)。作家が望んでいなくても、国家が望んでいるものを書いたのが北原白秋(舞台より)。
『じゃぁ、今、コロナ禍で文化芸術を望んでいないのは誰なのか?』
 って疑問を、観る側の頭の中に自然と浮かばせたのは、作り手側の巧妙なテクニックだなと感じた。

 

・持つ者、持たざる者について(R3.2.24追記)
 物語上では、芥川に尊敬されている北原白秋を「持つ者」
 芥川に憧れているのに一向に見向きもされない太宰治を「持たざる者」
 として描いていた。
 ここには現状の社会情勢も描かれているのではないか?コロナ禍で顕著になった貧富や権力の差。富や権力を持つ者が支配し規制を作ることで、それらを持たざる者との格差がより一層生まれる社会。それを風刺した描写ではないか?演劇は持たざる者の立場だけど、太宰の言葉を借りて『持つ者から富と権利を奪いに行くぞ!』という気概、それを暗に伝えたかったのかなと思った。


・奪うことは悪なのか?演劇は悪なのか?(9/27追記)
 太宰にとって憧れの芥川。その芥川が憧れる白秋に太宰が嫉妬するシーン。太宰は「芥川先生も『羅生門』で奪うことは人間の業って言ってたもん」って話をしていた。芥川の「羅生門」しかり、劇中に出てくる関東大震災しかり。太宰の「斜陽」や「女生徒」も指摘されてた。けど、自分が生きるために人から奪うのは果たして『悪』と呼べるのだろうか。演劇が存在することで、私のように生きる希望を見出す人がいるのであれば、それは『悪』じゃないんじゃないのか?
 芥川が太宰に「この先の世の中で、白秋さんの作品が必要ないと言われても、自分は白秋さんの作品に救われたから守りたい」と言っていた。それは国から「不要不急で必要ない」と言われた演劇を含めたエンタメにも通じる話なんだろうな、と感じた。この世の中で演劇が「悪」だといわれても、私にとって演劇は生きるための「必要悪」だと言い続けたい。

 

・コンコンコンコン(9/30修正)
 太宰が芥川の部屋を訪れるときのノックのやりとりが、第1弾の志賀と武者のやりとりを踏襲していた。1で武者が「コンコンコン志賀」って言って、志賀が「チンチンチン武者」って言って、二人でプチ喧嘩始めるところめっちゃ可愛くて好きだったからうれしい。少し真面目な話をすると、マウスシールドで煙草が吸えない表現は、生きるために必要のない嗜好品(演劇含め)が奪われた描写なのかもしれない、と思った。

・照明の色で伝わる有碍書(9/27追記)
 最初に白秋の「からたちの花」が有碍書になった時、緑色の照明がセットに照らされていた。その後、乱歩の本「怪人二十面相」が有碍書になった時、ピンク色の照明が照らされていた。乱歩の作品が侵蝕されているタイミングで、再び白秋の作品が侵蝕されるんだけど、ちゃんとセットの照明が緑色とピンク色両方で照らされていて、同時に侵蝕されているのが見てる側にも伝わった。

・鈴の効果音の意味(9/27追記)
 劇中で鈴の音が聞こえるシーンがところどころある。どのシーンで鳴るのか気になって、「何分何秒」「セリフ」「意味」を一覧化して書き出してみたんだけど、結局答えは出なかった。吉谷さんが音響さんに『きっかけ(音)が多くてすみません』って言ってたから特に共通の意味はないのかもしれない。
 けど、大事なシーンで必ずこの効果音が聞こえてくるから、観客の注意を惹きつける役割なのかなって思った。逆に館長の効果音はキーンとした金属音で、冷たさや軍隊の規律をイメージさせてた。

・引き戸で表現する現在の場所(9/27追記)
 今、文豪達がいる場所は、本の中なのか図書館なのかが、本棚にある引き戸の開け閉めで表現されてた。開いているときは図書館。閉まっているときは本の中。


中原中也の幸せな最期(9/27修正)
 前半で中也は「白秋は生きてるうちに認められ、皆に愛されてて羨ましい」と言っていた。その言葉が後半で自分が死ぬとき、白秋一門の皆に抱かれながら息を引き取ることに繋がっていた。
 史実の中也は、身近な人がどんどん死んでいき精神を病んで亡くなったから、転生したこの世界では仲間のために戦い、仲間に見守られながら息を引き取ることが出来て良かった。

 中也って、孤独だから愛されたい。生前認められなかった分、認められたい。でもそれを素直に言えず、孤高の立ち位置にいる。だから最期みんなから愛されて認めてもらえて、孤独から救われるストーリーが本当に素敵でした。
 中也も第1弾に転生させてくれて、太宰や芥川や無頼派に出会わせてくれてありがとうございます。

・仲間の存在が死を回避させる(R3.2.24追記)
 中原中也が死ぬ覚悟で館長と戦うシーン。第2弾の有島を彷彿させたけど、有島には白樺派という仲間が居て、芥川が居たから死ぬ戦い方から生きる戦い方に変わった。
でも中也は白秋一門にも属さず、宮沢賢治も存在しない世界でたった一人だった。だから死ぬ戦い方を止める人も居ない中、館長に殺されてしまったのではないか。

 

・朔太郎の最期(9/27追記)
 東京初日では、朔太郎が亡くなる時、朔太郎の胸の辺りで犀星の手を握っていた、と思う。配信終了したから自信ない。それが京都公演では手をあげて犀星の胸元で握る演出に変わっていた。おかげで朔太郎と犀星が手を握るシーンがより観客にもわかりやすくなってたと思う。

 

・没時の布で想いを伝える(9/30修正)
 中也が亡くなった時、芥川が垂れ幕を大切に抱き去っていってた。その姿に亡くなった中也の亡骸を抱く芥川の幻影を見た。朔太郎が殺されたときの中也もしかり。順番に全員が殺されていくたび、そうやって仲間が大切な文豪の死を悼む姿に、亡くなった者の想いも、誰かの心の中で受け継がれていく姿が描かれていました。
 だから最後全員殺されたのに、「いきろ!!」と叫び、銃口や刃を客席に向けて撃つ(斬る)姿は、まさしく魂の叫びだと感じた。そしてその想いが太宰に届き、国家を倒す演出が本当に素晴らしくて素晴らしくて。《人の想いが人を生かす》って表現がまさに伝わってきた。ここのシーン、迫力が凄まじくて毎回泣きすぎて冷静に見れない。

 
・シリーズから見る芥川と乱歩の立ち位置
 1~3まで全作品に転生している芥川と、1と3にだけ転生している乱歩。
 第1弾で乱歩の立ち位置が凄く気になってたのね。何か全体を知っているような口ぶりと、物語を進めていくストーリーテラー的役割。なぜなんだろうって疑問に思ってたけど、今回の作品を見て、3と1に共通して出演している芥川と乱歩だけが、3の記憶を残していたんじゃないのか、と思った。3の最初で、太宰に侵蝕者についての謎を説明するのもこの二人だし。
 芥川は3で「もう何十回何百回と地獄は見てきたのだから」と言うことで、これ以外の世界へも転生しているのを示唆しているのかもしれないし、それを観てる側にもわかりやすく伝えるために、1~3まで全て転生しているのかなと思った。個人的にミステリー作家として、謎を解明しようとする立ち位置の乱歩さんのおかげで、3を初めて見る人もストーリーを理解できたと思う。わごぽ(和合さんの乱歩)めっちゃスキ。鞭で打って欲しい(笑)


・最後に朗読劇を2回挟む意味
 ごめんなさい、ここの考察が私の中でもまだ腹落ちしていない。
 9/27時点での考えを書きます。

 白秋が「心を押し殺し、自分の志はしまい込んで」って言うのがきっかけで1回目の朗読劇が開始される。感情がこもっていない淡々とした朗読劇が始まり、舞台の上にいたのは役者の姿で文豪ではなかった。そこから少しずつ、役者に感情が入っていって、朗読劇の最後では穏やかな白秋が魂となって昇華していくイメージを持ちました。
 だからこそ、その次のシーンで白秋や仲間たちの魂を宿し命を受けて立ち上がる太宰治の強烈な存在感が際立ってた。

 2回目は最初から文豪達の穏やかな朗読劇。文豪達が全員殺され、文学が消えた世界でも、誰かの心の中で作品は生き続けている。それは、その人の心の中に魂として文豪達が存在し、形は無くなっても文豪達の魂だけは生き残って存在している世界のイメージでした。そして「この道」がBGMで流れることで、この先に新しい明るい未来が待ってるのを確証させた。

 深読みし過ぎかもしれないけど、朗読劇を入れることで、幕が上がらず舞台稽古で終わってしまった可能性も示唆していたのかなと思った。

平野良氏という役者(9/27追記)
 平野良さんだからこそ作り上げた「太宰治」がいた。脚本家のなるせさんと演出家の吉谷さんの対談を読んで思ったけど、平野良さんって見終わった後に『平野さんだからこそできるキャラクターだ』って思わせる力を持ってるんだよね。
封神演義趙公明めちゃくちゃ楽しみにしてる!!
 やっぱり平野良さん演じる太宰治が主人公として存在するから、見ていて安心感もあったしスッキリした爽快感もあった。平野さんが太宰を演じてくれて良かった。シリーズの締めくくりとなる第三弾の主役が、第一弾同様、平野さん演じる太宰でほんとうに良かった。

 

 1〜3全てのキャスト陣、ブルズの皆さん、脚本家さんや演出家さん含めたスタッフさんのおかげで素晴らしい作品に出会えました。ありがとうございました。感謝感謝。志賀直哉役の谷佳樹さんの言葉を借りるなら、文劇への好きが溢れて『スキアフ』です。

 なのに明日からもう文豪達はこの世に存在しないかと思うとめっちゃ泣きそう….°(ಗдಗ。)°.会いたい。文豪達に会いたいよぉ。

※この感想を書くのに史実を調べ、配信を何度も何度も繰り返し見て、いろんな角度で考察し、書き上げるのに40時間かかった。それくらいの熱量で感想を綴りたくなる作品だった。

今はひたすら『もし志賀直哉武者小路実篤が3の世界に転生してたら』と『江戸川乱歩と侵食者 変ワリ者ノ狂想曲(カプリチオ)』の妄想で生きながらえてます(笑)

 

※ゲームやってなくてアニメと舞台のみで、文劇を見るにあたって関連資料を色々調べただけの人なので、おかしな点があればこっそり御指摘いただけるとありがたいです。