ジャニオタが勉強してみた

生粋のジャニヲタが、人生のお勉強をするブログ

舞台「文豪とアルケミスト 嘆キ人ノ廻旋(ロンド)」の感想

【感想】
製作陣と文豪たちが己へ突き付けた≪エゴの刃≫のような作品だった


 劇中でも度々出てくる単語「エゴ」
 辞書でひくと「エゴイズムの略。自分の利益を中心に考えて、他人の利益は考えない思考や行動の様式、利己主義」とあった。

 例えば
「楽しくてエンタメ色が強くてわかりやすい作品」
 それに対し
「重くて心を抉ってくるような難解な作品」

 お客さんが入りやすいのは絶対に前者なのよ。
 前者の方が作品としてはとっつきやすいし、見に行くハードルが低いから気軽に見に行こうと思える。俳優さんからのファンサが多い舞台が人気なのは、まさしくその典型的な例だと思う。

 でも、今回の作品を見て思ったのは、制作陣は後者の作品を作りたかったんだなということ。そして、前者との葛藤の中で作り出した作品なのかな、と思った。

 それが作品の中でも海外の大衆小説を書く文豪を出すことでうまく表現されていた。

 例えばエドガー・アラン・ポーが、純文学と大衆小説について語るシーンで『作品を生み出しても人々に読まれなければ意味がない(曖昧)』と言っていた。
 大衆小説=皆に好まれる小説はそれでいいのかもしれない。
 けれど今回の作品は純文学がテーマで、自己を削って作品を生み出す芸術性がテーマ。皆に読まれる読まれないは関係ないんだよ。

 夏目一門を主軸に置いたことでそのテーマ性がよりわかりやすかった。
 夏目漱石自身が「書くことで精神の安定を図っていた」と言っていたように、小説を書くことは漱石にとって精神安定剤だったのであれば、その門下生の芥川龍之介久米正雄が同じように、純文学に傾倒し芸術小説を書くのは自然な流れだと思った。
 ただ、久米正雄はその後、大衆小説も書くようになっていったので、青春時代に書いた「破船」が侵蝕対象となったのは妥当だな、と思った。
(友達情報なのですが「久米正雄を大衆小説に誘ったのが菊池寛」と聞いて、菊池寛をキャスティングしてきたの神ってなった。
 途中に出てきた『もう、邪魔されたくないんだよ!』のセリフも、本当は純文学を書きたいのに大衆小説を書いたってことなのかな?)


 今回のキャストさんはほとんど30代です。
 だから成熟した大人の雰囲気が醸し出す苦悩が伝わってきてよかった。
 海外の大衆小説とはまた違った、日本人独特の純文学のような、湿度の高い心の葛藤、心の機微が描かれていてよかった。
 また海外の個を重んじる考え方と、日本の集団を大切にする考え方。
 そして自死を禁忌とする考え方と、切腹という文化もある自死尊いという考え方。
 それらの対比も海外文豪を出すことでわかりやすかったなぁと感じました。


 作品でいうなら、終始描かれる久米と芥川のエゴ。
 「自分の作品は自分ひとりで守りたい、自分の作品が汚れるならその前に消して欲しい、芥川に素晴らしい芸術小説を書いてほしい」
 それらは全部久米のエゴ。
 「久米を救いたい。久米を救うためなら自分が侵蝕されて死んでも構わない」
 それは芥川のエゴ。
 作品の中でも二人のエゴがぶつかりあう内容だった。

 

【様々な伏線や気づき】
・セット
 今作品では芥川や菊池が通っていた喫茶店がイメージなんだね。
 調べたら新橋にある「ギンザカフェーパウリスタ」というところらしい。焼けてしまったので今はもう当時と同じではないんだけど、そういうのも考慮してステンドグラスが割れていたのかな。
 あとメインステージの端の部分がちぎれたようになっていて、割れたステンドグラスと同様、退廃した雰囲気のセットだった。
 だから日本人の文豪が出るときは、その退廃した雰囲気がマッチしてたんだけど、それとは逆に海外の文豪が出てくるときは、ソファーやテーブルなどは綺麗で、バーの描写があったりして、日本の文化に西洋の文化が入り込んできた時期を切り取ったのかな、と感じました。

 そしてサブステージ!
 芥川と久米が両端に立つシーンがあるんだけど、これが二人の心の距離を表していてとてもよい。
 あと、冒頭部分で夏目漱石が「門下生の・・・」と説明するときに、芥川をまず紹介して彼の優秀さを並べるんだよ。
 そこのサブステージにいる久米の疎外感と悔しい気持ちがめちゃくちゃよいので見てほしい!
 ここのシーン、メインステージで話が進んでいってるから、配信だと久米にカメラが抜かれないけど、ここの久米、ほんとにめちゃくちゃよい!!劇場に行ったら、ここのシーンは久米ばかり見てしまった。
 ただ、ステラボールは横に広いので、左右のサブステージに距離があって前の方の座席だとかなり見にくかったです。ピロティだったらそんなことないのかな。
 ってか、少し後方の座席の方が全体が見渡せてよいと思います。が、久米のあの悔しい表情は間近で見てほしい!!


・炎の演出
 今回の侵蝕された本のタイトルの出し方が今までと変わっていて、布が焼けて文字になるっていう手法だった。これは新たな手法ですね、吉谷さん(笑)
 しかも焦げたような感じだったので、喫煙者の芥川を彷彿させた。夏目漱石も愛煙家だったし。
 ここで一旦”火”というワードを頭の中に入れることで、後半の梵書や地獄変にも繋がるあたり、布を焼くことに意味があったのね、吉谷さん(笑)


・影の演出
 シルエットの描写が多用されていました。
 文劇1で芥川の「鼻」が侵蝕されたときに出てきた、光があれば影が出来るということも意味しているのかな、と思った。特に久米を表現するときに、シルエットで描写されてて『あぁ、芥川が光で久米が影なのか』って思いながら見てた。


・文アニと文劇
 「地獄変」が表現された瞬間、文アニを思い出しちゃったよ。
 志賀ぁぁぁぁぁ(私は志賀ファン)
 今回は地獄変を出すことで、芥川の芸術小説のクオリティの高さを、久米が感じていることが表現されていた。
 炎の表現が、また・・・

 そして久米の小説に芥川が潜書出来ないっていうのも、文アニを思い出した。
 文アニでは芥川の小説に潜書出来ないのを、無理やり志賀直哉太宰治がこじ開けて潜書するんだよ。こういうところで文アニと文劇って繋がってるんだろうなぁって感じました。


・ブルズさんの活躍
 地獄変での炎の表現方法は圧巻。そして潜書させないようにギュッと固まるのを、一つずつ剥がして潜書するあの演出がいいんだよ。やっぱり人がそこに存在するだけで圧を感じるというか、生身の人間が演じるから重みを感じるのよね。
 文劇2でブルズさんに覆われた武者小路実篤を救おうとする志賀さんを思い出しました。あそこもブルズさんの圧がすごいからこそ、志賀の助けたい気持ちが活きてきたシーンだったし。
 あとは「こころ」のブルズさんの動きも素晴らしかったです。一応「こころ」は事前に読んでいたので内容は知っていたのですが、ブルズさんの存在で読んでない人にもよりわかりやすくなってた。


・乱歩のみどころ
 今回「和合さんの魅力を引き出す(曖昧)」と制作会議でなるせさんと吉谷さんがおっしゃっていたとレポで見ました。
 確かに和合さん演じる乱歩がいつものストーリーテラーだけでなく、いつもより物語に絡んでいた気がする。それはポー様やクラフトさんが出ることで、大衆小説の仲間を得たからなのかな、と思った。
 笑いのシーンに欠かせない人物。それが和合さんの乱歩なんだよ。
 個人的にクラフトさんの壺に吐こうとする乱歩さん(配信では映ってない)と、「外してほしい」(これは文劇3のネタだね)からの落ち込み乱歩さんが好きです。


・犀星の存在
 今回は彼だけが詩人で唯一ぶれない人。
 吉谷さんが「揺らぎ」を描いた、って言ってたのね。
 日本文豪達は、純文学と大衆文学との間で揺らぎ、海外の文化が入ってきたことで揺らぎ、自分のエゴが原因で揺らいでいた。
 海外文豪達は、精神的揺らぎはなかったけど、ミステリー小説という、読む人々の心をヒヤヒヤと揺らがせる存在なのかな、と思った。
 そんな中、短い文体で本質を突く詩人の犀星の存在はありがたかったです。ポー様に噛みつきに行くシーンは、萩原朔太郎の死のことを思い出させて、思わず文劇3のあのシーンが頭をよぎりました。そして怒ったら椅子を振り回すのも、史実通りで安定の犀星だなぁと思った。


・「揺らぎ」について
 芥川の揺らぎについて、わたし的にモヤモヤしたから吐き出させて欲しい。
 芥川は「自分の作品が無ければ」って言ったり、自分の作品を梵書したり、自分が犠牲になって久米を助けたり、<死>に対して近い存在な風に感じました。
 時系列的には3→1→2→5だから、太宰と出会って、蜘蛛の糸で助けられて、太宰から図書館で「仮にも死ぬなんて言わないでください(曖昧)」って言われた芥川なのに、こんなに死の色がまだ濃いのか、って思ってしまった。
 確かに久米を救うには、吉谷さんがいうところの「美しい悲劇」として侵蝕者を自分が取り込むという選択肢はアリなんだろうけど、だったら太宰がやってきたことはなんだったんだろう、って思った。
 (侵蝕者を取り込みに行く前に「犀星君に怒られるかな」って言うことで死を嫌う犀星が怒ること=死を選ぶ、っていうのが分かるようなセリフが入ってるんだよね)


・久米と太宰
 久米は「負の感情を芸術に変えるのが自分」「純粋な魂を誰にも邪魔させない」「やり場のない魂を文学として昇華する」って言ってたから太宰と同じタイプなんだろうね。
 そして太宰も負の感情を作品に落とし込んで昇華するタイプで(だから3のアルケミストに狙われた)、でも太宰は文学として綺麗に昇華出来て、なおかつ民衆からも人気が出たのが違いだと思っている。
 文劇の時系列では、芥川は転生した太宰に出会ってから久米に出会ったので、久米に太宰の影を見たんじゃないかな。
 だって「自分がいなくなっても久米なら文学にしてくれる」「久米の文学の中で生き続ける」って言うんだよ。
 似たようなセリフ、太宰に言ってるのを聞いた気がするんだが?
 だから「久米に助けられた」って言うセリフは、暗に「太宰君にも助けられた」って意味も含んでる気がする。
 久米に似た太宰に助けられた自分だから、自分を犠牲にしてでも久米を助けようとした、と考えると芥川の死の「揺らぎ」がスッキリするんだよ。
 そこんところどうなんだろう。

 

 さて、最初の話に戻りますが、リピーターチケット列が凄かったです。
 それはきっと、何度も見て考えないと理解できない作品だからだと思う。
 あと、ステージの構成上、目がいくつあっても足りない(笑)
 大阪公演は全て行く予定なので、どうか最後まで走り切って欲しい。
 東京千秋楽お疲れさまでした。